由緒
当山は是れ征西将軍足利直冬(官軍の頭たり)の裔なり。
将軍、久しく龍山に住し、忠勤にぬきんでて、しばしば功有り。
帝、賞して菊桐の宝紋を賜る。将軍固辞す、帝威のおそるべきをわきまう。
ここにおいて替えて、万の字(万戸侯に封ず可きしるし)と菊とを賜る。
その寵の厚きを以って、まさに知るべし、いずくんぞ後に出家せるかを。
一寺を創り、金性寺と号し、天台を宗とす。
その後、寺を此国成に移し、改宗して浄土真宗に帰す。云々
勝願寺過去帖より
意訳
当寺の寺主は足利直冬(征西将軍とよばれ官軍の頭だった)の後裔である。
直冬は永く龍山に居住した。常に忠勤を励み、度々功績を挙げ、
天皇より褒章として菊桐の紋章を賜る、
しかしあまりにも恐れ多く、ご辞退申し上げた。
ここに於いて、替わりに万の字(万戸侯に封ぜられたに等しいことをあらわす)と
菊との紋章を賜る。その寵愛の厚きに感じ入り、後日出家した。
そして一寺を建立し金性寺と名付け天台宗とした。
その後、寺をここ国成に移し改宗して浄土真宗に帰依した。云々
歴史
足利 義山
勝願寺第23世住職。光圓寺(御幸町下岩成)に生まれる。
13歳の時、島津慧海和上(甲山町正満寺)の私塾「学心館」に入寮する。
嘉永2年(1849)に勝願寺に入寺し、明治10年(1877)西本願寺・西山教校にて真宗学の教授となり、その後、備後・博練教校を設立し、安芸・進徳教校、京都・大学林(現龍谷大学)でも教鞭をとった。
明治23年(1890)に本願寺第22世門主・大谷光瑞上人の学事係となり教行信証等を御進講申し上げ、翌年に勧学を拝任した。
また、明治31年(1898)大学林綜理(現龍谷大学学長)、明治38年(1905)には初代名誉教授に任命された。晩年には、明治39年(1906)、門主より殿中携杖(殿中においても杖を携えてよい)を特許、明治41年(1908)に耆宿(ぎしゅく・学徳優れた老大家の称)を授かる等、徳望高く「明治の高僧」と称される。
※勧学
教学の研鑽をきわめた学僧に与えられる学階の最高位。
教団は信仰の統一性と継続性を保つため、教義に対する異説や異安心を厳密に裁定する必要がある。
勧学で組織される勧学寮は門主の諮問に答申し、教義に関する重要事項を審議する役割を持っている。
足利 瑞義
勝願寺第24世住職。義山の三男として勝願寺に生まれる。
明治27年(1894)、大学林(現・龍谷大学)を卒業後、ロシアに留学。
帰国後は、大谷光瑞上人の側近として活躍し、第1次大谷探検隊のインド仏教遺跡調査で得られた資料の整理を担当した。
明治42年(1909)には、第2次探検隊のメンバーとしてヒマラヤ山脈西側の山岳地域カシミールまで光瑞上人に随行長として同行し、
仏教発祥地であるインドのガンジス川流域まで調査した。
その後、仏教大学学長(現・龍谷大学)、執行長、宗学院長、
ハワイ開教総長に就任するなど、数々の要職を歴任。
昭和12年(1937)には、親子2代にわたって「勧学」に任じられ、
昭和14年(1939)に再び龍谷大学学長に就任した。
瑞義は後世になっても「尊い人だった。」と周囲に語られるほど、高徳の人であった。
※大谷探検隊
光瑞上人(本願寺第二十二世門主)は、仏教徒による遺跡調査の必要性から
大谷探検隊を組織。明治35年(1902)から13年間に亘って3回、
20人以上の青年僧侶たちによって、
世界に例を見ない大規模な中央アジア探検が行われ、
シルクロード研究の貴重な学術調査となった。
甲斐 和里子
義山の五女として勝願寺に生まれる。
広島・開成舎、京都・同志社女学校英語専科で学んだ後、
仏教精神に基づく教育を目的とした顕道女学院を明治32年(1899)に創設した。
翌明治33年(1900)には、その理念を貫くため、夫・甲斐虎山とともに文中女学校を開設。明治43年(1910)に京都高等女学校と合併し、同校は後に京都女子大学へと発展する。
経営は西本願寺仏教婦人会へ移譲したものの、創設者自らが教諭として昭和2年(1927)まで教壇に立った。
大正13年(1924)の貞明皇后(大正天皇皇后)行啓の際、同校は皇后から「心の学校」と賞される。
その時、女子教育に情熱をかけ続けた和里子に対し、皇后は「よくやってくれた」というねぎらいの言葉をかけておられる。
晩年は「草かご」等の著述をはじめ、法味愛楽の日々を過ごした。
※京都女子大学
明治45年(1912)、九條武子仏教婦人会連合本部長は「女子大学設立趣意書」を発表したが、当時の社会は女子大学の設立を許す状況にはなかった。
大正9年(1920)、京都女子高等専門学校として認可を受けた後、中学校と高等学校を設置し、昭和24年(1949)に悲願の女子大学設立を実現した。
続けて、小学校、大学院も開設し、幼稚園を含めた全国屈指の総合学園となった。